第25話 「音色に恋をするべからず」
今住んでいる家から30〜40mくらい離れた所に小さな川が流れていて、
その向こう岸の川沿いに、一軒の古〜いレトロな木造家屋が建っている。
そこにはどうやら一人のマリンバ奏者の方が住んでるらしく、
ワシはここに引っ越して以来1年半、日中ほぼ毎日のように聴こえる
優しいマリンバの音色に癒され続けている。
近所からも多分苦情は一切いってないんだろう、これだけ毎日
演奏していられるのは、このあたり一帯、全員がその美しい響きに
うっとりと聴き惚れてるからなんだと思われる。
たぶん
間違いなくプロの人で、練習のために弾いてるんだと思うが、
この1年半一度もミスタッチを聴いた事がないくらい非常に上手い。
そして「ヤシの実」や「ジングルベル」なんかの、季節ごとの童謡や
子供向けの曲から「ウィリアム・テル序曲」みたいなクラシックの
超技巧的な曲まで、レパートリーも実に幅広い。
特に夏の夕暮れ、窓を開けてタオルケットを腹にかけ、ゴロリと
昼寝をしている時に、外からヒグラシの声と共に、柔らかい音色で
「ヤシの実」なんかが聴こえて来た時の、あのトロけるようなまどろみ。
もう最高。
いったいどんな人が弾いているんだろう。
窓のカーテンはいつも開けたままになってはいるが、あまり陽が射さない
部屋らしく、30〜40mという距離もあって中の様子はうかがい知れない。
かつて一度、演奏中の横顔がシルエットだけチラリと見えた事があったが、
なんとなく長い黒髪の細身の女性のような印象であった。
へぇ〜、美人かなぁ?いや、きっと美人だろうなぁ。
いくつくらいの人かな?
あの、時に柔らかく時に力強い繊細なタッチ、優雅な間の取り方、
完璧なテクニックと、優しい人柄が表れた選曲から察するに、
きっと20代後半から30代半ばくらいの、落ち着いたエレガントな大人の女、
て感じだろうなぁ。
それできっとどっかのオーケストラなんかに所属してて、黒いロングドレスか
なんか着てホールコンサートとかに出てるんだろうなぁ。
長い黒髪、古いレトロな家、優美なマリンバの調べといったものから、
何となく古い小説風に「麗しの君」と言った表現がピッタリのイメージ。
うーん、素敵だ。
ワシはいつしか、恋にも似た憧れの感情を抱きつつ、麗しの君が奏でる
マリンバの音色に耳を傾けるようになっていた。
そんな先日、我が誕生日である2月4日の事だ。
夜遅くに帰宅して車から降りたら、あのマリンバの音が響いている。
へぇ〜夜になっても練習してるなんて珍しいなぁ。
あれかな?コンサート前日とかで追い込み練習でもしてるのかな?
そう思い、川向こうに目を向けると、ナントあの部屋の窓に煌々と明かりが灯り、
懸命にマリンバを奏でる人物の姿が、ハッキリと照らし出されているではないか。
そこに映った、ついにベールを脱ぐ、まごうことなき「麗しの君」その人は、
頭のハゲた、50代のおっさんでした…
また一つ、大人の階段昇りました。。。
つづく
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